2005.08.30
ガザ:この2年間で忘れられない記憶 ジャーナリスト・ライラより
ガザで活躍している女性ジャーナリスト、ライラ・エルハダッドさんが、自分のブログに、記憶に留まり続けるだろうと思われるこの2年間の体験ベスト10を書いていた。
ハーバード大卒で、女性でジャーナリストというのは、ガザのパレスチナ人社会ではかなり異色だとは思うが、この2年にライラさんが初めての子どもを持ち、そして働きながら体験してきたことのほとんどは、ガザっ子の誰もが体験した《普通》のことの凝縮のように思われる。ひとつの大事な記録として紹介してみたい。
「イスラエル人たちがガザから去ってことが終盤に近づいて──私たちを「守護天使」よろしく監視している煩わしい兵士たちはまだいるけれど──、私は息子のユーセフを腕に(ある時はお腹に)抱えて、ガザの様々な表情を報道してきたここでの時間を振り返った。それでこの2年間の忘れられない瞬間トップ10をかりそめに書き出してみた。順序はとくに関係なし。
1. ラファの見知らぬ人の家で過ごした一夜
妊娠5ヶ月だったとき、イスラエルが包囲したこの地域で、知らない人の家で一晩を過ごした。砲弾は頭の上を飛び、スナイパーはあたり一面に銃撃していた。イスラエル軍が地域を封鎖してしまったので、私はガザ市に帰れなくなっていた。少なくともやってきた同じ道を辿って、銃弾の雨の中誰かの農場をこっそり抜けて帰るのは無理だった。
2. ヤシン師を追っかけたこと
(暗殺される前の)アハマド・ヤシン師を、ガザ市を行進するハマス支援者1万人の雑踏をかき分けて、妊娠8ヶ月のマタニティー・ジーンズとスニーカー姿で追いかけた。やっとヤシン師に追いついたときには、吐き気がして、汗だくで、倒れる寸前だった。ヤシン師はそんな私をシンプルな自分の家に招き入れ、座らせて、時間を限らない形でインタビューさせてくれた。彼はどんなに素敵だったことか。私の質問に詩の一節を挟みながら、十分以上に答えてくれた。私は「暗殺されるのが怖くはないか」と不気味な質問をした。彼は「スィマーはけっして溺れることを恐れないよ」と答えた。
3. 屋根の上から、爆撃を見たこと
「悔悟の日々」作戦 のときにジャバリヤ難民キャンプで、熱心な住民に薦められて、屋根の上に登らされた。その人は私のことをサポートしてくれようとしたのだけど、私の命は危険に晒された。そのおかげで私はイスラエルの攻撃ヘリがどこからともなく現れて、私たちから数メートルも離れていない隣家に銃撃を始めるのをみることができた。この残酷な作戦で120人以上のパレスチナ人が殺され、その3分の一は 子どもたち だった。
4. 4ヶ月のユーセフを連れて、ロバの荷車に乗り、海岸を抜けたこと
ラファから国境を越えて、(エジプト経由で)米国に行くために、4ヶ月になったユーセフを抱っこヒモで自分にくくりつけて、ロバの荷車に乗って岩だらけの斜面を下り、海岸を横切った。この旅は48時間もかかることになってしまった。イスラエル軍はガザを3つに分割し、ネツァリーム交差点の前で海岸道路を完全封鎖していたのだ。
それから気まぐれな兵士たちがアブ・ホーリー検問所を開くのを8月の暑さのなか、4時間以上も待った。ユーセフは裸にして走り回らせておいた。とても暑かったからだ。
5. 母親が正気を失う姿を見たこと
ラファの国境のフェンスで、イスラエル人たちが私たちと母さんを別々にしたとき、私は母さんが正気を失う姿を見た。兵士たちはもし、通過が許されない場合は、両手をあげて監視塔の前を歩いていくようにと脅したのだ。パレスチナの役人たちは母よりもさらに怯えきった表情を見せていた。
6. それなのに、ユーセフがイスラエル兵に笑いかけたこと
ラファ国境の検問で、パスポートにスタンプを押される際に、こんな目に遭ってきたのに、ユーセフはイスラエル兵士たちに向かってケラケラ笑った。母はこんなジョークを返した。「かわいいユーセフ、ダメよ。それは敵なのよ」
7. カイロで55日間の「流刑」の日々を送ったこと
私たちが米国からの旅から(エジプトへ)戻ってきた日、イスラエルはラファの国境を閉めてしまった。そんなわけで、私はカイロで「流刑」の55日間を寒い家具のないアパートメントで過ごさせられるはめになったのだ。時差ボケとどこまでも転がっていくユーセフをお供にして。
8. イスラエル兵を怒鳴りつけたこと
国境が再開された後、私は臭い国境バスの中で5時間待たされているときにイスラエル兵を怒鳴りつけた。というのは、私たちの前にある戦車が停まっている無人の地(no-man’s land)にユーセフの「おむつ爆弾」を投げようとしたときに、私の前の窓が閉められたからだ。実際にターミナルは空っぽなのに、どうして入国の手続きが遅れているのかという私の質問には何も返ってこなかった。後になって、上級役人に私の行動は「適切でない」と言われた。
9. 立場を忘れて、泣いたこと
私はジャーナリストという自分の役割も忘れて、 10歳のノラーンをなくした 両親の傍で泣いた。ノラーンは包囲されているラファで教室に入るのを待ちながら、クラスメートと歌を歌って、列に並んでいるところをイスラエルのスナイパーに撃たれて命を失った。
10. どんなときでも息子のことを考えていること
どんなにひどいことが起ころうとも、一日の終わりには息子がきて、私にコアラみたいな抱きつきとべちゃっとしたキスをしてくれると知っていること。彼がいない人生というものが考えられない。なんて素敵な人生なんだろう。彼が今、世界にいるということは。」
( "My top ten list" August 27, 2005、ライラ・エルハダッド)
小さな怪獣ユーセフ (リンゴ飴をかじるユーセフの写真へのリンク)のことを除いて、私はここで起きたことをほとんど知っている。ラファへの大侵攻、ジャバリヤでの作戦、国境閉鎖……。ライラがこれを体験している間に、私はこれらを文字だけで追ってきた。
4〜8は一続きの事件で、国境が閉鎖された頃のことだ。4の旅を書いた記事は訳したいと思っていたが、ひどい侵攻のどさくさのなかでそのままにしてしまっていた。( 「マドンナとロバの荷車」 でちょっと触れている)この後、「悔悟の日々」作戦が続いて、ガザは地獄的な状況になっていた。
本当にひどいことばかりが続いた2年だったな。その間にユーセフは生まれて、成長していたんだ。ユーセフのような子どもが大きくなって、このようなことを経験しないですみますように。そんなことを強く感じながら、この記事を書いた。
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ライラの記事へのリンク


