2011.11.29

東京周辺訪問記

今、私の心に響いている言葉。

「人生には避けることのできない運命がある。そのための悲しみや苦しみを自他ともに味わわなければならなくても、必然的にそこに行きつくようになるまでは、できる限りの誠意を尽くさなければならない。」1996年『百合子、ダスヴィダーニヤ』(沢部ひとみ 女性文庫 学陽書房)より

この原発人災以降の日本で、ほんの一部の場所を除き、誰をも傷つけない表現はできないと私は悟った。極端な話、「福島から逃げろ」と言えば、福島に残っている人を傷つけ、「福島に残るのもいい」と言えば、福島から避難した人たちを傷つける。そこには簡単な解はない。

今から書くことも、首都圏付近の人たちにはあまり気分のよくないものだろうと思うけれども、関西の人間が久しぶりに行ってみて、何を感じたのかというのを書き留めておくのもよいだろうと思い、書いてみる。選択は限られているけれども、自分でするしかない。(10月に行ったときの話です)。

Part1「うっすらと放射能が蔓延する首都圏滞在」

3年ぶりくらいに東京へ行った。いつものように私にとっては(いささか節電していようとも)ピカピカとやたらまぶしい光だらけの都会だ。そして、人がやたらめったらいる。

皆、早足で歩き、どこからか流れ出してきて、どこかへと過ぎ去っていく。そして、毎日の日常を送っている。それはいつもの上京のときと何もかわらない。

けれども、友人と会ったり、友人宅に泊まって、わずかなサンプルだけれども、首都圏がやはり3月11日以降、関西とは違う生活を送っていることに気づくしかなかった。

たとえば、水道水を使わず、ペットボトルやウォーターサーバーでのミネラルウォーターを使っている(「水の商品化」に反対していた友人でさえ)。私の友人だから、偏りがあるのは確かだけれど、しかし、生活のスタイルを変えてしまっている人が少なくともいるというのは事実だ。関西に住む私は、水道水ライフを今までどおり送っているというのに。

食べ物を買うのも大変だ。産地がどこなのかを友人たちは確かめ、人によっては魚も食べなくなっていた。牛乳も安易に買えない。子どものいる家ならなおさら。本当は子どもたちは新鮮な牛乳をたっぷり飲んでいたはずなのに。

そして、衝撃的なことを聞いた。「ミニホットスポット」という単語がすでに成立していることを友人から教えてもらったのだ。それは町とかではなくて、町の中のある部分だけがとても放射線量が高いところを指すのだそうだ。実際、検索してみたら、「ミニホットスポット」という言葉が出てきた。

ある友人の住む町では、友人がグルーブを作って測定したからわかっているのだけれど、某公園の滑り台の下とか、ある団地の雨樋の下とか、なんと毎時6マイクロシーベルトが測定されたという。オーマイゴッ!私は0.6の聞き間違いじゃないかと思ったが、6なのだ。年間に直すと 6×24×365=52.5ミリシーベルト(!)となる。もちろん、そこに1年中いるわけではないけれど、小さな人にとっては恐ろしい数値だ。なんと、その毎時6マイクロの雨樋の下の泥で、測定前には子どもたちが泥団子を作って遊んでいたという……。なんということか。

この友人は父母のグルーブを作って、市に働きかけているけれども、その市はなんら対策を取ろうとしないという。市営の保育園などでは、測定さえも拒否されたとか。(「ミニホットスポット」については、「船橋市 アンデルセン公園」などで検索してみてください)。

この6マイクロという数値が私に衝撃を与えたのは、読んでいた『ゴーストタウン チェルノブイリを走る』(エレナ・ウラジミーロヴナ・フィラトワ 集英社新書)という怖い本では、今もって「死の町」となっているチェルノブイリ周辺の村や町の空間線量は毎時1マイクロくらいなのだ。(ちなみにこの『ゴーストタウン チェルノブイリを走る』は、カワサキの大型バイクに乗ってチェルノブイリ周辺をガイガーカウンターをお供に走る女性の写真と個性的な文章で構成されていて、読み進めていくうちにどんどんと恐怖が高まっていく。とてもユニークで、オススメなのだけれど、最終章の「冥王の国」まで到ると、背筋が凍るような本だ)。

友人の話を聞くうちに、計れば計るだけ、「ミニホットスポット」が見つかっていくんだろうと推測できた。ガイガーカウンターなしに過ごせば気づかないけれども、まるで地雷原の中にいるようだ。

だが、こうして、特に子どもたちへの影響を考えているような人たちに対する首都圏「世間一般」の視線は、ある部分では冷たいということも友人から教わった。ある友人が言うには、首都圏から避難していった人たちのことを「放射能フリーク」とやゆして呼ぶということがあると聞いた。私は関西で福島県とその近隣から避難してきた人たちだけではなく、意を決して首都圏からも避難してきた人を数多く知っている。その人たちがそんな「放射能好き」みたいな言われ方をされているなんて…。

日本のどこでもたいがい今はそうだろうが、放射性物質の拡散と堆積については、3つの態度が取れる。

1 なかったことにする(わかっていても、気にしていたら「普段」の生活ができないから)

2 存在を気にしていてもどうしていいのかわからず、気にしながら迷いつつ生きる

3 相対的に「安全な」ほうへ避難する(しかし、国も東電もちゃんと責任をとってくれそうもないので、今までの暮らしは捨てるしかない)

この3つの選択肢の中でどれかの態度を知らずに、または意識してとるしかない。どれも本来は考えなくてよかったはずのことだ。このコンフリクトが最も極北まで来ているのが、福島県内のホットスポットであることは間違いないが、首都圏が関西などと違い、とくに1と2の落差が大きいということがわかった。関西は1と2の境目がはっきりせず、3という選択肢はあまり考えられない。そういう意味では危機意識がとても薄い。首都圏はストレスが明らかに高いのだろうなということを思った。

外資系の企業も原発事故以来の対応が国によって違うことを友人は教えてくれた。すぐに本社機能を関西へ移したのは、仏と独の企業。こういうところはメルセデスのように、チャーター便をだして、社員をドイツへ避難させているところもある。また、仏の大手小売業社は、店を閉めていた期間があった。デパートなどに出店している企業だ。日本のデパートは開店しているというのに、その企業のコーナーだけはクローズドされていたそうだ。というのは、店を開けると社員が出かけなければならず、それだけでヒバクリスクを負うからだということによる。反対に英と米の外資系企業はそのままで営業していたらしい(とはいえ、米国政府はフクイチから80キロ圏の避難を最初に呼びかけている)。

チェルノブイリの体験があるかどうか、または政府間の関係にどれだけ左右されているかによるのだろうけれども、この4つの国の対照は興味深かった。不幸な人の話も聞いた。英国系企業に務めているスイス人で、即、関西かどこかへ避難したが、会社はそれを認めてくれず、呼び戻されて、白眼視されたとか。このスイスの人はチェルノブイリ体験があり、心底怖かったという。もう辞表をだしているのかもしれないが。

この上京から帰ってきて、関西のグルーブが文科省の発表によって作ったセシウム降下量マップを見せてもらった。

http://antinuclear-k.com/flier/11110001chiaschi.pdf

今年の3月〜5月までの累積によるものだ。桁が、桁が違ってしまっている!な、なんだ、これは?と私は見ながら思った。本当は間違いだと思いたい。その気持ちはある。でも、これは文科省ですら出している数字だ。風と地形、雨の降り方で、こんなに差が出るなんて。わかっていても、このマップを見ておののいた。東京にいる甥っ子、姪っ子たち、友人の子どもたちは本当は避難させたい。しかし、それもそんなに簡単にはいかないということもわかっている。子どもたちや若い人たちをロシアン・ルーレットに乗せておくことしかできないのだろうか。

関西に戻ってきてから、台湾人の友人に言われた。反原発の活動を熱心にやっている人だ。

「日本人って、みんなで一緒に死ぬのが好きなんですか?」

あー、それ、あるかもしれないなぁ。「散華」などという言葉が使われていたような国だから。心中というのもかなり独特の文化であるし。などと、太平洋戦争のことも考え合わせて思ってしまっていた。

もうすぐ、私はまた上京する予定だ。

Part2 「故郷喪失とディアスポラ人の遺跡遭遇」

東京行きのバスが終点に行き着いて、いきなり「新宿スバルビル前です〜」というアナウンスがあったとき、私はびっくりしてしまった。「え?スバルビル?まだあるの?」。これが「遺跡」との久々の邂逅(かいこう)だった。

確かにスバルビルはあった。その前に降りて、まったく忘れていた過去を思い出した。私は8歳頃から毎週一人で新宿の歯科医に歯の矯正のために通っていた。うちからバスで1本。歯科医はスバルビルの向えにあった。その横には本屋さんがあり、私は歯科医に行くと、その本屋さんでピーナッツブックスを1 冊買っていいことになっていた。いわゆるスヌーピーだ。谷川俊太郎の訳が味わい深かったと思う。その頃、京王プラザはあったかどうか。なかったような気がする。

新宿西口には詳しくなった。ただ、私が成長していく間にも新宿はどんどん変わっていった。渋谷も9歳くらいから親なしで遊びに行っていた。プラネタリウムや児童館が楽しかったからだ。その渋谷もまた若者の街へと変貌を遂げていったのを目の当たりにしている。

確かに私は東京で生まれ(いっとき神奈川にいた以外は)、18歳まで東京で育った。東京はいまだにあるが、私は自分の故郷というものはもうないとずっと思っている。

私の故郷は東京近郊のまだ畑がいっぱいあって、雑木林もあった新興住宅地だった。向いは農家で大木が庭に何本もあった。遠くに遊びに行っても、その大木が見えるので、自分の家の方角はわかるほどの高さだった。その中の1本には雷が落ちたこともある。地響きがして、自分の家に落ちたかと思ったくらいだ。

子どものときの遊び場所は雑木林、原っぱ、道路、材木置き場、沼地、なんだかわらかない空き地。関東ローム層のじとっとする台地に、けっこういろんな起伏があって、外を駆け回るのには絶好の場所だった。でも、ある日、斜面に広がっていた空き地は整備された公園になった。そのときのつまらなかった記憶は鮮明だ。遊具がいくらあっても、楽しくないのだ。そこには創意工夫して遊ぶ仕掛けが一つもなく、全部お仕着せの遊べない場所になってしまったのだから。

畑や原っぱが消えていくのも見ていた。たしか7歳くらいのときの私の夢は大人になったら、1万円で100円のチョコレートを100枚買うことだったが、10歳くらいになると、大人になって大金持ちになったら、この辺の原っぱや雑木林を買い占めることになっていた。

私は大金持ちにもならなかったし、それよりも大人になる前にすべての景色が変わってしまった。自分たちの家が畑を(たぶん)切り売りして建てられたように、残っていた土地は全部宅地になり、向いの大木も切り倒された。もう長く住んだ家もないし、近くだった祖父母の東京別宅もない。

恐ろしくて昼間に近づくのもイヤだった、林の中にある江戸時代からの墓地(その頃は、まだ土葬をしていた)の上にも住宅が建っているのを知っている……。(そこに住んでいる人には教えてあげたいくらいだ)。

そんなわけで、私の原風景は消えてなくなり、「故郷」といえるものはなくなった。

少しだけ発見したのは、アニメの中に私の「故郷」が描かれているということだ。それは「となりのトトロ」。映画のクライマックス直前でいなくなった妹のメイを探しに、姉の五月が家を飛び出していく。そのとき、出てくる畑と夕日の光景が私の「故郷」にあった風景そのものなのだ。

というわけで、私は故郷を喪失して、関西住まいのほうが長くなったけれど、本当に関西に根を下ろしたかというとそうでもない。関西は好きでも、どこかで失くしてしまった武蔵野の面影のある雑木林や原っぱを求めている私がいる。関西には偽関西人として、永遠の旅人として居座っているという気がする。

だから、東京に行くというのは、いつも複雑な思いだ。

まったく知らない首都に行くというのでもない。基本的な構造はわりと残っているのに、ほとんどすべてのパーツが変わってしまった世界への旅になるからだ。親和感と異和感が混在する体験。まったく見知らぬ土地ならいいのになぁと思う。

今回は神保町あたりに何回も行く機会があった。本郷、御茶ノ水、神保町のあたりは、幼稚園の頃から18歳まで慣れ親しんだ土地だ。特に幼稚園のときに生前の母と二人で(やはり)歯医者に通っていたのは忘れられない思い出である。というのは、長女の私には母と二人だけで過ごした幼少の思い出が少ないからだ。

駿河台坂の敷石がはがされてボロボロになっていたのも記憶している。その道をスキップの練習をしながら降りていった。歯医者は古い本格的な洋館で、待合室には本物の暖炉があり、そこで私は福音館の絵本を読んでもらって順番を待っていた。その歯科医にはおじいさんの大先生と、壮年の小先生がいて、大先生にみてもらうほうが私は好きだった。その後、中学くらいまでは一人で行くこともあった。

この歯科医の古い洋館もずいぶん前になくなり、小さなビルになっているのを私は知っていた。明大のキャンパスもまったく違うタワーのようなビルになり、婦人の友社の会館も東宝パーラーもなくなったのを知っていた。

今回、小川町にいて、ちょっとだけ時間ができて、その歯科医のあったところを探してみた。まったく、あてずっぽうに歩いたのに、わりと簡単にその場所を発見することができた。というのは、隣に小さな神社があるからだ。今回、確認したら、「太田姫稲荷神社」という。歯科医の洋館のあったところには、小さな新しいビルが建っている。が、私は懐かしい友のような存在に出会った。あの洋館の玄関に入るには石段を何段か登る。その時にいつも無意識に見ていた、石段の側にはみ出ている神社の銀杏の木が黙ってひっそり立っていた。横すれすれにビルが建てられているため、銀杏の木は先端を無残に切り取られている。でも、「あ、ここにまだいたんだね。その曲がり具合やコブはよく知っているよ」と見ていて、思いがこみあげてきた。

亡くなったエドワード・サイードが、自分の生家である西エルサレム(現在、イスラエル領)の家に近づくのを恐れたように、私もそこへ行くことは怖かった。けれど、銀杏の木に出会ったことで、本当に「郷愁」というものを感じることができた。根無し草のディアスポラ(離散)にある人にとって、たった一つでもそういう場所が残っていることは、ほんの少しの自分だけのスポットとなる。木は私を忘れていても、私は木を忘れない。その形、その枝ぶりが心の中に残っているから。それだけで十分だと思った。

この次の上京では、長く住んだ東京近郊の街を少し歩いてみようと思う。何かが残っていることなど期待はしていない。ただ、歩きたいだけ。失われたものを確認しにいくような感じなのかもしれない。

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私は彼女らを利口馬鹿と呼んでいます。

コメント by :boomboom

津波で縁のあった人達が亡くなり、通学に使っていた鉄道が未だ復興の見通しが立たず、従弟は福島原発で作業を続けています。叔母は、原発の仕事と知られたら差別されるのではないか、と苦しんでいます。茨城県では小学校に入学すると原子力称賛
歌詞のある「県民の歌」を歌いますので、私は小学校以来、原子力について本を読み、戦争を覚えている人達の話を聞いてきました。中学生にして反原発主義者で、署名活動も入れれば35年も反原発活動をしてきたことになります。今回の地震と事故で、他人を踏みにじって平気でいる人のなんと多いことか感じます、今さらながら。ホットスポットの何ヵ所かからは、かつて廃棄されたラジウムが出てきた所もありましたね。私は「私は意識が高いのよ」みたいなお祭り騒ぎにうんざりしています。あなた方が原発の恩恵を受けて、地元の苦しみを顧みなかった時から反原発活動をしてきたけれど、今はこうして私も私の故郷も侮辱され傷つけられている、それは、やはり
フェアではないと思う、と言いたいです。
自分も被害者みたいな顔はしないでもらいたいです。
故郷では、放射線が検出されなかった農産物も、都会から拒絶され、首をつる農業従事者がいます。だから、私とパレスチナ人の夫は、茨城県や福島県の野菜や魚を、敢えて食べています。

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2011.12.03 (Sat) 19:59

pさんのことではありません

コメント by :boomboom

上のコメントは、放射線が怖い、と、安全圏で大騒ぎしている人達のことです。Pさんのことではありません、きつい文ですみません。
別に。あんな人達に期待なんかしていません。
別に、茨城県や福島県の農産物や魚を食べたくなくても勝手にすればいい。
数日前は、職場で栽培した芋の放射線を計測してもらいました。洗って、皮をむいて、すりつぶして。簡単な計測器では、農産物の放射線量は計れませんから。

通販生活のカタログに広河隆一氏の記事が出ています。
今まで抱いていた敬意が、消えました。
被曝しても、故郷に帰りたい人間は帰りたいのです。
反対に、帰りたくない人間には、被曝以外にも、そこにいたくない理由があるんです。
理屈ではありません。

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2011.12.03 (Sat) 20:13

コメント by :boomboom

何回にもなってすみません。

2001年9月11日の悲劇の際に、アメリカの国連大使だったか、閣僚だったかが、「私達のために黙祷してほしい」と呼びかけたら、ほとんどは、一緒に黙祷してあげましょうという態度でしたが、ドイツやスペインといったテロ事件があった国の代表が、「我々がテロで多くの失われた命のために嘆いた時に、アメリカやアメリカ人が、ただの一度でも悼んでくれたことがあったか?」といかっていた、あの気持ちがよくわかるような気がします。
でも、わからない人がとてもとても多いことも知っています。


JCO臨界事故で亡くなった方は、今言動の冷却作業をしている従弟が行ったのと同じ高校を卒業した人でした。今もJCO近辺には、トラウマや経済的な被害に対して償いも何もされずに苦しんでいる人達がいます。
どうして、茨城県北部の人間が訴えたことに。耳をかしてくれなかったのか。日本人は?
自分は、安全圏にいるからですよ。

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2011.12.03 (Sat) 20:41

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