2006.11.06

犠牲者の割合を比較すること

最近、読んだ文章のなかで、このような一節が頭の中にくっきりと残った。

「わたしが人間(the human)の問題から始めて、そこで終わることにしても、驚くことはないだろう。ここから始めるのは、普遍的に共有されている人間の状況があるからではない──そんなものがないのはたしかだ。最近のグローバルな暴力のなかでわたしの心を占めている問いは、こうだ。「誰が人間のうちに数えられるのか」、「誰の生が生として数えられるのか」、そして最後に「なにが悼まれる生を作り出すのか

(ジュディス・バトラー『不確かな生』、村山敏勝「予め喪われた死者へ」[現代思想10月臨時増刊]より孫引き)

常日頃からパレスチナで人々が殺されていくのを見ていると、この疑問はずっとつきまとって離れない。

つい先頃、発表されたパトリック・オコナーの Israel's Large-Scale Killing of Palestinians Passes Unreported では、犠牲者の数を比較しながら、イスラエルとパレスチナの不均衡を描いていた。

数の比較で語ることが塗りつぶしてしまうひとりひとりの生について意識しつつも、オコナーが描き出したものを見てみよう。

上記の文章によると、パレスチナ人によって殺されたイスラエル人に対し、イスラエル軍によって殺されたパレスチナ人の割合が、このインティファーダ始まって以来、とんでもなく高くなっているという。

アルアクサー・インティファーダ開始(2000.9.29)以来、これまでで平均した犠牲者数の比率はパレスチナ人3.9人に対してイスラエル人1

たとえば、2000年は6:1くらいであり、最も差が少なかった2001年では2.5:1くらいになっている。

ところがハマスが選挙で勝った2006年1月になってからは、パレスチナ人26人に対してイスラエル人1人。さらに「夏の雨」作戦が始まった7月からとなると、パレスチナ人76人に対しイスラエル人1人の割合となっている(実数ではパレスチナ人381人に対し、イスラエル人5人の犠牲者)。

このことからわかることは、2005年の暫定停戦以来、パレスチナ側は比較的停戦を守っているが、イスラエルはそれに関わりなく、パレスチナ人を殺し続けているということだ。そして、イスラエル側の口実──「防衛のためにテロのインフラを取り除く」など──とは裏腹に、急激な比率のアップはハマスが政権に着いて以降、懲罰として攻撃が続けられていると考えられる。

しかし、このような圧倒的な犠牲者の差、また武器などの差に関係なく、(特に米国では)パレスチナ側がイスラエルを脅かす存在として捉えられていることをオコナーは指摘する。

「皮肉なことに[イスラエルを破壊しようとしているとして]非常に悪く言われているハマスが政権を取った状態のもと、6年間のインティファーダのなかで最もパレスチナ人がイスラエル人を殺害した数が少なくなっている。」

この実態は認識されていないし、米国メディアもまたパレスチナの攻撃を強調しているとオコナーは書く。たとえば、ニューヨークタイムス、ワシントンポスト、LAタイムスのうち、この3ヶ月の双方の不均衡な死者数をあげたのはニューヨークタイムスのみ。しかし、それは1、2行を占めるのみで、分析もコメントもついていなかった。

日本での報道も似たようなもので、パレスチナ人の犠牲者が報じられたとしても、「衝突によって」「ロケット発射を阻止するために」というようなイスラエル軍報道官の発表さながらの理由がつけられ──実際の細かい状況は無視され──、ごくたまには「誤射」という説明がつけられる(この「誤射」も、カウントしていけば、無視できない数になるのだが、それは行われない)。

そうやって、パレスチナ人は「テロリスト」に留められたままになっている。

このままパレスチナ側が片方だけの停戦を続けるとは限らないとオコナーは書き、もし、パレスチナがやり返した場合、世界はそれを「応酬」とみるのかさえ不明だと結論づけている。

Israel's Large-Scale Killing of Palestinians Passes Unreported (Patrick O'Connor, The Electronic Intifada, 4 November 2006)[各年ごとの棒グラフつき]


あまりにもパレスチナ人の殺される割合が急上昇していることに改めて驚く。イスラエルが今の攻撃を続けるかぎり、パレスチナでは非暴力の抵抗が意味を持たず、結果としてイスラエルに跳ね返っていく暴力も続く(それはイスラエルが振るう力にはまったく及ばないながらも…)ということにどうして気づかないのだろうか。

「和平」と言いながら、イスラエルの振るう力を野放しにしている米国や他の世界の国々、そしてメディアの共犯で、現在のパレスチナ=イスラエルの問題は終わりが見えてこないとつくづく感じる。

最初に引用したのは、ジェンダー論の第一人者であり、ユダヤ系米国人学者のジュディス・バトラーの文章。バトラーはパレスチナ人の死を悼む記事がサンフランシスコ・クロニクルに掲載されなかったことについても文章を書いている。
この文章自体は、急逝されてしまった村山敏勝さんの遺稿となった文章から採らせていただいた。

トップページインデックス | 関連カテゴリー コラム

■ コメント&トラックバック (3 件)

バトラーとイスラエル批判

コメント by :早尾貴紀

 こうして数字で示されると、「生存に対する脅威」というレッテルがいかに転倒したものか、ということが明白になりますね。しかし、それでもなお、一般大手メディアや、あるいはバトラーが問題視する「知識人」層での認識は、「パレスチナ=武装組織」とか、せいぜい「双方の衝突」という構図。
 そのバトラーのイスラエル批判については、その『現代思想』のバトラー総特集で、僕も執筆し議論を展開したつもりでした。そして、急逝された村山さんとは、それが刊行される10日くらい前に会って、お互いにどんなことを書いたかを話したのが最後になってしまいました。質問したいことがいっぱいあったのに。

トラックバック from:

2006.11.12 (Sun) 00:51

ガザへの国際介入を!

コメント by :

トラックバック from:じゃりんこのコーヒータイム

2006.11.13 (Mon) 22:32

あまりにも突然で…

コメント by :ビー

村山さんのバトラー特集の記事を読むのと、訃報を知ったのが立て続けで、「予め喪われた死者へ」の内容も合わせてショックを受けました。村山さんの遺稿については、今度も考えていくと思います。

早尾さんが『現代思想』で書かれていたバトラーのイスラエル批判の不十分なことは、今後もバトラーに注目していくなかで変化を期待したいところです。一筋縄ではいかない人ですね。

トラックバック from:

2006.11.13 (Mon) 22:42