2006.06.20

新しい「ガーダ パレスチナの詩」評 「ガーダ」水のような映画

ナブルス通信のイタリア系特派員emme emmeさんによる「ガーダ パレスチナの詩」の評が届いたので、ここに転載。アラブ文学に造詣が深いアビールさんによる解説コメントつき。

「ガーダ」水のような映画 / emme emme

水の流れのような映画だ。高きから低きへ流れ、とどまり、満たし、運び、流れる。その水を導くのは古居みずえの視座、そしてそれと呼応するガーダの意識だ。さらさらと自然で透明で衒いがない。しかしその水は地下水脈の強靭さをもつ。水に運ばれて、一人の女性の生を追いながら我々は、パレスチナの歴史、伝統、風習、精神、苦難、抵抗を廻ることになる。叙事詩(英雄の登場しない)を描いた一連の壁画を見る趣だ。

故郷・家・思い出・家族・土地・その大地で何百年も生きたパレスチナの魂が宿るオリーブ樹・・・何もかも奪われ続けた果ての、苦難の跡が刻まれた老いた貧しい人々の、威厳ある姿。胸塞がれ、圧倒される。

何とも魅惑的な声をもつ老農夫とその妻が驢馬の牽く荷車の上で、会話を歌の掛け合いでやりとりするシーンを見ながら、話に聞く「アラブ口承文学」の伝統はこの様に生活に深く浸透しているのかと、目を見張った。

農地を根こそぎにされたその農夫が涙を一筋流しながら、「私の心は血を流している」と憤りと悲しみを訴える表情と言葉の、厳かなまでの静けさ。朗々と低く、私の解さぬその言葉は詩のように響く。まるでエヴァンゲリスト(福音史家)のレチタティーヴォだ。その静けさの向うに、奪い破壊する側の卑劣さ・醜さが陰画となって浮かび上がる。

長いインティファーダのシーン。「激しく虐げられたものたちによる、ぎりぎりの集団的な生の祝祭」。 「Arisanのノート」の言葉 が脳裏に甦る。

私はこの映画を年上の友人と一緒に観た。評判を伝え聞いて私に情報を求めてきたのだった。映画の後、下のカフェでパレスチナ風料理を食べながら、戦中派の彼女は、空襲を何度も受けた東京でもあんなに四六時中砲撃音は聞こえてなかった、パレスチナの日常が想像を絶する状況下だということを初めて知った、世界には知らされていないことがあまりにも多いわね、と言った。

敬愛するこの友人は40余年来イタリアと深い関わりを保ち、仕事の関係から贅を尽くした美食の世界とも縁のある人だが、伊共産党創立者の一人、アントニオ・グラムシの生涯・業績を格別の愛着をもって追った時期もあり、イタリアの若い友人が働く「国境なき医師団」の支援活動にも力を注いでいる。現場で働く人間が好きだとよく言っている。結構硬派なのだと知ってはいたが、若かったら映画それもドキュメンタリーの仕事がしたかったという話は、その晩初めて聞いた。古居みずえという人もすごいけれど、こういうことが出来る世の中になったのだなあ、という感慨もある。こんな戦中派らしい感想も洩らした。7月公開の「アルナのこどもたち」を見に行く約束をしている。

(By. emme emme, 2006年6月19日)

*映画「ガーダ パレスチナの詩」の紹介文は以下に。 新しいナブルス通信 『ガーダ パレスチナの詩』公開!


[この文章に対するコメント]by.アビール

「あのシーンはですねーほんとうは字幕にもっと工夫が欲しかったところなんですよねー あの老人は本物の詩人で、会話の合間に自作の詩を挟みこんでいるんです。アラビア語には日常語と文芸語の2層があるんですが、彼は一介の農夫でありながら高い教養と鍛錬を必要とする後者を用いた古典的な詩を詠むことができます。それであのシーンでは、自分の喪失体験を物語る際に、途中で言葉に詰まって、その代わりに詩を吟じだすんです。彼にとっては通常の会話よりも詩のほうが、経験や感情を表現するのによりふさわしいとでも言うかのように。

あの映画の素晴らしいところのひとつは、こうした言葉の魅力にありますね。もうひとつ、何度見ても心打たれるのが、ガーダの父方の祖母ハディージェが、占領前後の体験をガーダに語り聞かせるシーン。彼女は先の老人のように文芸語を用いることはできませんが、彼女の口から発せられる言葉はまさに民衆の語りの芸術。「ヤ・ワラディー(息子や)」という裏声の合いの手のような決まり文句が随所に挟み込まれ、「タジャッラドゥナー・ワ・タシャッラドゥナー(一切合財失って、散り散りになった)」といった韻が自然と踏まれたりしていて、その全体が歌であるようなゆったりとリズミカルな言葉の波に浸されると、陶然となってしまいます。「アー」という相槌ひとつとっても、なんともいえない味わいがあるんですよねえ。あのオレンジをガーダにもいでくれるおばあさんもそうですけど。ああいう語りは若い人にはできません。

アラビア語を解さない方々にはこの言葉の魅力がどれくらい伝わるものか、不安だったのですが、やっぱりわかる人にはわかるんですね。でも本当は字幕をもっと「詩的」にして、イタリックを使うとか、工夫して欲しかった…」

*「ガーダ…」のシーンで見られるアラブ口承文学の伝統や、これらの映像の稀有な点については山本薫氏による「『ガーダ ‐パレスチナの詩』女たちの歌が語りかけるもの」で詳しく言及されています。この文章は以下のウェブサイトの途中に収録されています。

UPLINKのサイト上での『ガーダ…』紹介 (「人物紹介」の次の文章)

上記の山本薫氏の文章から一部引用。

「パレスチナの地域社会では、情感や思考にかたちを与え、人々に伝達するための "メディア" として、詩歌が特別に重要な役割を果たしてきた。この映画には詩や歌を自分のことばの一部として自在に紡ぐことができる古老たちが登場するが、彼らは詩歌という形式に個人の経験や感情を埋め込むことで、それらを公のものに転化し、地域社会の共有財としてきた。歌には民衆の歴史が刻まれているのだ。殊に男の領域=公的(パブリック)/女の領域=家内的(ドメスティック)という枠組みに縛られてきた女性たちにとって歌は、自らの "声" を公にすることが許される限られた場の一つであった。しかしそれですら、男たちの発する "声" の前にはかき消されがちな存在だったのである。」

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