2006.01.17

震災11年 止まったままの時計

テレビをつける気にもならない。新聞を見ても、「頑張って」「前向きに」「元気に」という言葉に相変わらず違和感を憶える震災11年目の今日。

前向きに元気に頑張れる人たちのことを否定する気はない。が、私の中ではそうすることもできない人々のことが、ずっとひっかかっている。

私が震災後の神戸で出会った高齢のご夫婦のことを、ここ数日、思い出している。

「すぐそこの路地のアパートに、困っているおばちゃんがいるんよ。ちょっと話を聞いてあげてくれへん?」

と神戸市中央区の公園で避難生活をしていたひとに言われたのは、震災後何ヶ月目だったろうか。おそらく4ヶ月目か5ヶ月目の、徐々に仮設住宅が建ち始めていた頃だと思う。

教えられたとおりに公園の北の路地を入ると、崩れかけたアパートが目の前に現れた。

「えっ、ここに人が住んでんの?」と思うような壊れぶり。外階段はやっとのことで二階に「つながっている」という風情で、上がっていくのが怖かった。(余震が来たら、潰れるかもしれないなぁ…)と思いながら、階段を上がる。

その二階の端の部屋に、くだんの女性が住んでいた。「公園の○○さんから、聞いたんですが…」と切り出すと、70を過ぎている小柄な女性は私を部屋に招き入れて、行くところがないという話をし始めた。

全壊と判断された小さなアパートに残っているのはこの女性とお連れ合いのご夫婦だけだった。(だいたい、真ん中の部屋などは二階部分の床が抜けて、階下に貫通しているところがかなりあるというありさまで、住めるはずがなかった。この夫婦の部屋は角部屋でなんとか床も抜けずに持ちこたえていた)

お話を聞いたところ、ご夫婦は震災の日にアパートから抜け出して、近くの避難所に移り、そこで避難生活を始めたという。ところが、1週間もすると、夫がやたらと避難所で口喧嘩をするようになったという。口喧嘩というより、些細なことで、夫は周りにいる人に絡んでは大声を張り上げる。そんなことが度重なり、避難所での暮らしは針のむしろにいるようなものになっていった。

やがて、夫の徘徊が始まった。ここに来て、この女性Mさんは夫に異変が起きていることに気づいた。認知症が環境の激変によって出たと考えられる。避難所の生活を続けることが難しくなり、Mさんは夫を連れて、壊れかけたアパートに戻った。そこしか行ける場所が考えられなかったから。

やがて仮設住宅への募集が始まったが、Mさんは初期の抽選に落ち続けた。そうしているうちに、アパートの所有者から立ち退きの勧告が出された。

私が最初に尋ねたときは、立ち退くように毎日、業者からヤクザまがいの電話がかかり始めたという時期だった。憔悴しきった顔でMさんはどんな汚い言葉で立ち退きを求められているかを私に語り、涙をこぼした。

この電話はともかくも、確かにここに暮らしていることは危険だ──それは明らかなことだった。考えられる限りの高齢者用施設に問い合わせたが、どこもまったく受け入れの余裕はない。ひとつの望みは公園に建てられる高齢者・障害者用の仮設住宅だった。Mさんの条件なら、入れる可能性は高い。

そう考えて、臨時に公園のテントに避難することを提案し、新しいテントを用意した。

Mさんもこの窮余の策を受け入れて、テントに避難した。危険なアパートよりは安全だし、第一、ノイローゼになりそうな電話を受けなくてもすむ。問題は「おとうちゃん」だったが、半ばだまして、テントに連れていった。

Mさんなら高齢者仮設に当選するやろ、という楽観的な思いを裏切って、Mさんはまたしても抽選にはずれた。災害対策本部にかけあったような記憶もあるが、どうにもならなかった。

テントでの暮らしも長い期間になると、徘徊をする「おとうちゃん」を伴っては、困難だった。何とかできないのか──打開策を考えている矢先に、Mさんからある日、電話をもらった。

「もうどうにもならんので、ずっと離れていた故郷にいる甥を頼って、神戸を離れる」という。その出発の矢先に電話をしてくれたのだ。たぶん、Mさんとしては、「お世話になった」人たちになかなかこの決心が言い出せず、かといって何も言い残さずにいなくなることもできなかったのだと思う。

そんなわけで私は最後にMさんとちゃんと話すこともできなかったし、Mさんを見送ることもできなかった。本当に故郷では受け入れてくれるのだろうか?ということも頭をかすめたが、それを確かめる術もなかった。

実際に見たわけでもないのに、私の頭のなかには「おとうちゃん」の手を引いて神戸から去っていくMさんの小さな背中の映像が残っている。

10代の半ばで神戸に出てきて、製鉄(と聞いた記憶がある)の仕事につき、汗水垂らして働き、やがて結婚。だが、身体を壊して、療養生活を送り、その後は仕立屋としてずっと働いてきた「おとうちゃん」とその妻は、贅沢にはほど遠い暮らしをしながらも、神戸の下町で生きてきた。そのささやかに積みあげてきた暮らしは震災で粉々にされ、人生のほとんどを過ごしてきた街からMさんは居場所を失った。

この前、話をした友人は「神戸にあの時期、行かなかったことがずっと悔いになっている」と語っていたが、行っていた私にも悔いは残り続けている。それはぬぐいさることができないものだ。

Mさん夫妻だけではなく、「どうにもならん」状況にあまりにも多く出会った。生活保護や、路上で生きること、強制立ち退き、居住権ということに私が出会ったのも神戸だった。

最も悔いが残っているのは、強制立ち退きに近い居住地からの追い立てに対して、何もできなかったことだ。遠隔地の仮設や復興住宅への島流し。健康で若くて職がある(たいていの)人には問題にならないことが、場合によってはのっぴきならない深刻さで、生活を脅かす。

一律に強制立ち退きをしているのではないから目立たないが、神戸市の取った動きは選択的強制立ち退きに等しいものだったと私は思う。

これに抵抗して、自分の居場所を作り続けた人は、何度も何度も脅された。

「地震はそりゃぁ、おとろしかったけンど、もっと怖かったのは神戸市や」

これは私がよく知る被災者が言った言葉だ。こういうことにほとんど何の力にもなれなかったことがずっと私の中に尾を引いている。

神戸から去っていった人、命を失った人たちとともに、私のなかの時計は止まったままだ。

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