2005.04.27

「この手が覚えている」ロッドの虐殺 映画「ルート181」から

パレスチナ出身のミシェル・クレイフィとイスラエル出身のエイアル・シヴァン2監督がつくりあげたドキュメンタリー「ルート181(Route 181)──パレスチナ〜イスラエルの旅の断章」は4時間半という長さにも関わらず、私にはすぐにでも見直したくなるものだった。ここでは全体についてではなく、私がまったく知らなかった一部のことだけを書いてみたい。

(いつ日本で次に見られるかわかりませんが、まったくの白紙でこの映画に臨みたい方は読まないほうがいいと思います。ただ、私がざっと20分くらいの内容を書いたところで、映画が音や映像を通して伝えるものにはまったく近づかないとも思います)

「ルート181」の第2部(中部篇)は移民を受け入れるセンターにエチオピアから移住してきた人々が机を前にずらりと並んでいるシーンから始まる。黒い肌の「ユダヤ人」たちは一様に顔に表情がない。ただ、黙って座っている。その前には白人のユダヤ人女性がいて、ユダヤの新年の儀式をこの人々に説いている。言葉がわからないのか、ただそれを無表情に聞く人々。女性は小学生を諭すような調子で、みなに乾杯をさせる。[これはロッド市にある新移民受け入れの統合センターの様子らしい]

カメラは一転して、現ロッド市(かつては「リッダ」と呼ばれていた)の市庁舎前。家屋破壊に反対する人々が抗議行動をしている。「差別反対」「共生を」というポスターなどが見える。アラブふうの人も、一見して欧州系ユダヤ人ふうの人々も混じっている。[これはタアユウシュというアラブとユダヤの共生を訴えるグループの活動だと映画パンフで知る]。

このシーンに続き、カメラはロッド市議会に入る。アラブ系議員がイスラエル内のアラブ人住民の家屋破壊について抗議している。「アラブ系住民にはどうやったら(増改築の)許可が下りるんだ?そんなものは下りないことをみな知っているじゃないか」。それに対して、ユダヤ人議員が「アラブ系住民は法律を破って(家屋の増改築をして)いるんだ。破壊されて当然だ」。「(アラブ系は)被害者面しやがって」さらにユダヤ系議員たちはロッド市内でアラブ系住民の比率が大きくなってきているということを臆面もなく批判する。アラブ系は20%を越えてはならないのだという。混乱する議会。収拾がつかなくなっていく。

次のシーンはロッド市に住むアラブ系女性の家のなか。ここも家屋破壊の危機にさらされていることが語られる。女性は政治犯として拷問を受け、視力がほとんどなくなっていること、家族が今も獄中にあることなどを語る。途中で家の前を通る女性の話が少し入る。イラク生まれのユダヤ人だと名乗り、アラブ系住民とはつきあいがないこと、アラブ系住民が多いこの一帯から立ち去っていくユダヤ人が多いことなどがさらりと語られる。

さらにカメラはロッド市の旧市街に行く。アラブ系の老人が48年以降、旧市街がずっと封鎖されていたことを語る。その封鎖の跡が古い石の門に残っている。自分は56年くらいまでその中で生きたという。

「ここはゲットーと呼ばれていたんだ」

ここはヨーロッパではなく、イスラエルで、パレスチナ人たちを閉じこめた地区をイスラエル国民となったユダヤ人たちは「ゲットー」と呼んでいたのだ。

カメラはこの街のアラブ系のおじいさんたちがたむろする床屋の中に入る。床屋の老人が街で起きた虐殺についてお客さんの頭を刈りながら語る。暑い日だったこと。それは7月7日に起こったこと。モスクにいた無抵抗の300人が殺されて、放置されたこと。後からその遺体を運び出し、自分たちの手で火葬して埋めたと淡々と語った。


この虐殺の話に不意打ちを食らったように感じた。イスラエル建国前後にパレスチナの400を越える村が壊されたこと、デイル・ヤシーンのような虐殺がいくつか起こったことは知っていたが、私の頭のなかにはわりと大きな街でそんなことが起きたということがまったく像を結んでいなかった。いったい、いつのことなんだろう?(この映画ではそのような背景は一切説明されない)。というわけで、少し調べてみた。

イスラエルが独立戦争と呼ぶ第一次中東戦争の、第一回停戦期のあと、劣勢だったイスラエル軍は体勢を立て直し、エルサレムとテルアビブを結ぶ街道の制覇を目指す。エルサレムへの補給線を確保するために、それは最も重要なことだった。この街道にあったのが、リッダ(現ロッド)とラムレという二つの街で、その街のアラブ人住人たちをどうするかというのが、軍事作戦上のひとつの焦点となった。

そのことをこの街を攻撃した部隊を率いていた故イツハク・ラビン元首相は自分の回想録で書いている。イスラエル初代首相となったベン・グリオンから最終的には「アラブ人を追い出せ」という指令が来たということを。アラブ人はテルアビブにとっても危険な存在であったからというのだ。

今ではパレスチナ人の 「追放を正当化するようになった」 ニューヒストリアンのベニー・モリスも、追放がイスラエル側によって意図的に画策され、人々が難民になったことをイスラエルの公文書から実証している。

48年に難民となったパレスチナ人70万人の1割を占める7万人が、このロッドとラムレの街から出たという。ロッドの街に残った人はごくわずか。人々は追い立てられ、トラックやバスに乗せられて、遠くに運ばれた。その背後にあったのが、この床屋の老人が語った虐殺なのだが、この虐殺については(調べが足りないせいもあるのか)まったく公式には──というのは、イスラエルの立場からの──認められていないこともわかった。

[追加]ベニー・モリスがこの虐殺を書いていることがわかった。

Morris reports several massacres in "Righteous Victims", and many more in "The birth", the worst of which occurred on July 12, 1948. After a shootout in Lydda, captured the day before by the IDF, "jittery troops responded harshly, massacring young men detained in the mosque compound, and shooting indiscriminately into houses; 'at least 250' of the townspeople died, according to [Israeli] Palmah records." Immediately after this Ben-Gurion ordered the entire population of both Lydda and nearby Ramle expelled from the new state (Righteous Victims 240)."  "The Case for Israel, a Critical Review" より


このようなことがわかって、老人が言った言葉がより鮮明に思い出される。殺された人を運び出し、火葬をした──どうして火葬なのだろう?伝統に反するので、これには意味があると思うが想像をするしかない──ことを語った後で、ひとこと、こう呟いたのだ。

「この手が覚えているんだよ」

「ルート181」の中部篇の冒頭に来たロッド市の部分だけを追ってみたが、見事な流れになっているのがわかる。到着して間もないような新移民──エチオピアの人々から始まり、ロッド(ヘブライ名)がリッダであったときから生きてきた老人たちの語りで終わるこの流れは、街のひとつの歴史にもなっている。多くのパレスチナ人たちが追い出され、そこにイスラエル人がやってくる。そこにはミズラヒームと言われるアラブ圏のユダヤ人たちもいた。だが、今、またアラブ系(パレスチナ人)は街で数を増やし、軋轢は高まっている。と、同時に共生を呼びかける人々も育っている。まるで、イスラエル全土のひとつの雛形のような場所だと言える。

この映画は明らかにシオニズムに反対する地点に立ちながら、安易な結論を導き出さない。「この手が覚えているんだよ」と言った老人は、それだけの体験を抱えながらも、そして常に「追放」の悪夢に脅かされながらも、この街で生き続けてきた。その現実を突きつけてくるだけだ。この老人の言葉をもう一度聞きたい。表情を見たい。そんな思いにかられる。そういうシーンが重なり合って、この映画の旅は人々の姿とともに、パレスチナ〜イスラエルの歴史と現在を描き出している。


2005年秋(10月)の 山形と東京での上映&東京でのプレ講演会情報

上映情報追加

☆「ルート181」──2006年1月の関西での上映会

1月28日京都・29日大阪 詳細は: ルート181:関西上映 京都・大阪

"Route181 -fragments of a journey in Palestine-Israel"

Eyal Sivan and Michel Khleifi
270min, Arabic,Hebrew

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