2005.03.01
アチェ──未曾有の災害の後に……
「巨大地震に襲われたたくさんの被災地でひどい状況を見てきたが、アチェは特別だ。何百キロもずっと、ずっと津波に根こそぎにされた光景が続いていた。こんな様子は見たことがない」
メキシコの友Cは1985年のメキシコシティー大震災の被災者で、地元住民による街の再建運動に関わってきた。その後も巨大地震の被災地を訪れては、そのときの体験をシェアするなど、活動を続けている。神戸にも、トルコにも、アルジェリアにも、エルサルバドルにも足を運んできたCが「アチェは特別だ」という意味が徐々にわかってきた。
Cはスマトラ北部やアチェのNGOの人々の助けを借りて、この2月の上〜中旬にアチェ州を回ってきた。東海岸から海岸線伝いにバンダ・アチェ市を経て、西海岸を行けるところまで。たぶん1000キロくらいの道のりを走っている。( アチェ州の地図 )
Cが撮ってきた写真を見ると、その海岸線1000キロくらいがみな同じようにほとんど何も残っていない光景になっていた。ぽつん、ぽつんと残る家の礎石、椰子の木、内陸に打ち上げられた船くらいしか、荒れ果てた大地に残っているものがない。どこの写真もある意味、同じに見える。だんだん、どこまでもどこまでも続く破壊の規模がわかってきた。
「この状況でどうやって生き残ることができた人がいたのかしら?」
と訊く私にCはこう答えた。
「奇跡のようにしか生き残ることはできなかったんだよ。たまたま、横に浮いていた人形が浮き輪替わりをしたとか、高い木に登れたとか…」
Cはアチェで作られたビデオ映像も持ち帰ってきた。地元のテレビ局とNGOそれぞれが制作した7分ずつくらいの2本の映像。その一部は日本のテレビ局でも使っていたが、7分を通して見ると、違った面が見えてくる。
最初は膝下だった水がアッという間に水かさを増し、家の残骸や車輌や何もかもを呑み込んで激流になっていく様子。必死にその水から逃れようとしている人々。そして、子どもの遺体を抱いて泣きじゃくる人々。
犠牲者の40%は子どもたちだというが、本当に子どもの遺体が多い。このような映像を見ていると、今まで何を知っていたんだろうかという思いに襲われた。
だが、映像はこの悲劇の後、どうやって人々が生きているかも伝えてくれていた。地元の農民たちから寄せられた食料の支援が届けられる様子、巡回する医師ボランティア、NGOによる被害の聞き取り調査、自分たちで自作の避難テントをはっているところ──これが細長い木の枝を枠組みにして布をかぶせた、簡素だがよくできた代物だった──。
アチェが独立闘争のさなか、インドネシア軍の暴虐にさらされ、多くの犠牲者を出してきた地域だということは知っていた。ジャーナリストも入れず、「密室」になっているということも知っていた。
恥ずかしながら、今回の映像に私は初めてアチェで生きている人たちの横顔を見いだした。NGOがきちんと機能していて、活動を盛んにしていることも初めてわかった。
友人のCは、子どもたち──とくに孤児になった子ども──のことに心を痛めていた。彼が紹介してくれた話にはこういうものがある。
「津波前からバンダ・アチェで貧困層の子どもたちやストリート・チルドレンのために活動していたYABというNGOがあって、若いが経験を持った人たちが活動していた。
そのグループは津波の日、海岸で子どもたちとの活動を行っていて、300人いた子どものうち、290人が死んでしまった。スタッフも12人のうち7人が犠牲になった。
しかし、このグループはまたスタッフを元の12人まで復活させて、今はバンダ・アチェの病院に入院している300人の孤児のケアをしている。津波で孤児になった子どもはバンダ・アチェだけであと200人はいるだろうとこのグループは考えている。が、今のところ3月までの緊急援助を受けているだけで、今後の活動の見通しが立っていないんだ」
社会全体が大きく被害を受けた場所で孤児の問題は重要なのに見落とされる可能性も高い。
他にもクルマネというところで、160人の孤児たちのために地元のNGOが施設を作ろうとしているということをCは言っていた。この孤児の数は今後5年で1000人ほどになる可能性もあるとか。
また、アチェには津波より前から戦災孤児になっている子どもたちがいる。
「ペサントレンという教育機関がニボンというところにあって、そこはアチェのイスラーム的伝統から、戦災孤児たちに衣食住や教育を与えてきた。共同生活し、そこから普通の学校に行き、午後は戻ってきてクルアーン(コーラン)などの勉強をする。マドラサのようなものとは違い、地域の伝統に則した慈善団体のひとつだ。
海岸から3〜400メートルしか離れていないこの施設には男女115人の子どもたちが暮らしていた。
津波の日、ここの学校長(導師のような人)は、津波ということをまったく知らなかったが異変に気づき、子どもたちを高いところへ逃すように奮闘した。そのおかげでここでは誰ひとり犠牲者が出なかったんだ。
だが、学校長自身は自分自身の家族─母親、妻、子どもたち─を失ってしまった。子どもたちのことで手一杯で、家族のことを忘れていたんだ……」
子どもたちはみな助かったが、ここはほとんどの施設を津波で破壊されてしまった。今は少し離れた場所に建てた大きなテントに115人が(男女別に区切って)暮らしているという。
今、私の手元には子どもたち全員の写真つきリストがある。10歳〜17歳の子どもたちの名前や出身地、学校、学年が記されている(男子はほとんど学校に行っているが、女子のなかには学校に行っていない子がたまにいるのが気に掛かる)。戦争で親を失った上に、さらに津波にも襲われた子どもたちの気持ちを考えてしまう。施設の再建にかかる費用は300万円ほどらしい。
☆
Cは地元で再建のために動き出している地元NGOやグループへのサポートができないかということを強調していた。これには私も同感。国家間の支援はまったく別のところに使われるだろうし、どこかに消えてしまうお金も多そうだ。
小さな支援であっても、地元で根を張ってやっていこうという人たちに送れないだろうかと思う(*これについてはまた、今後わかることがあったら情報を出したい)。
C自身は地元NGOの人々のおかげで特にトラブルにも遭わずにアチェで過ごすことが出来た。が、州境の軍事検問は非常に厳しかったとのこと。他の海外NGOは「スタンプの位置がずれている」とか難癖をつけられ、結局は賄賂をせびられていたということだ。
Cがお土産に持ってきてくれたアチェのコーヒーを飲みながら、これを書いている。それがとても香り高いのだけど、仄かに甘いのがなんだかヘン。あらかじめ、砂糖がまぶしてあるのかなぁ…。
アチェへの支援については、日本でずっと活動をしてきた「ニンジャ(インドネシア民主化支援ネットワーク)」が地元の人々とともに調査を始めている。漁師のために一番簡単な漁具を揃えるなど、きめ細かく、実際的な支援が始まっている。


