2004.11.04

希望のありか 〜米国大統領選後に (長文)

「この国には何の希望もみつけられない。ここを出ていくか、自分のことだけを考えて生きていくしかないんだ」

これはイスラエルのなかで2級市民として差別されて生きているイスラエル・アラブの人の言葉だ。

でも、この言葉、今の米国でも、そして日本でも同じように呟いている人が多くいるような気がする。

ある程度予想していたけれど、米国大統領選挙の結果には腹が立っている。いろいろなイカサマ*が行われているとは思うが、それでもブッシュを支持した米国民は相当数いたということだから。

*選挙人登録名簿から意図的にある層の有権者が除かれていることについては、「暗いニュースリンク」がグレッグ・パラストの 「腐り果てた選挙」 を翻訳してくれている。ゾッとするしかない内容だ。ヒスパニックや黒人の排除率が高いなんて。今後もいろいろな不正が出てくるんだろうな。これが「民主主義」を他国に押しつけている国の内情!

私がじっと見ている「イスラエル─パレスチナ」問題に関して言えば、ケリーだろうとブッシュだろうと基本的には変わりがないだろう。けれども、イラクやアフガニスタンで行っていることを思うと、ブッシュ再選は起こってほしくなかった。イラクのリバーベンドさんはこう書いている。

「ブッシュの再選は、イラクでのこの大惨劇が、アメリカ人とイラク人の命と引き替えに実現した価値があったことにしてしまう。ブッシュが再びホワイトハウスに納まれば、私たちがこの1年半舐め続けた恐怖と流血の辛酸がすべて是認されてしまうことになる。」(リバーベンド 「バグダッド・バーニング 10.25付「アメリカ大統領選2004…」より)

そう、結局は米国民のかなりの人にとって、イラクで流された多くのイラク人(そして米国兵士)の血は「どうでもいい」ことでしかなかったんだと思う。

「戦時」と言いながら、自分の上には爆弾は降ってこない人たち、自分の手で人を殺すわけじゃない人たちには、すべての不安を「どこか他の場所で生きている他人を傷つける」ことで覆い隠すような手法が必要だったんだ。

リバーの血を吐くようなことばが突き刺さる。

「 戦争を始めるという決断を「強さ」と結びつける人たちがいる。いったいどれくらい強ければ、異国の地で何千もの同胞を死においやることができるのか?
 特に、自分は家で家族とぬくぬくと傍観しているというのに。どれくらい強ければ、弱い軍隊と生活も経済もがたがたの国に対して、最先端の軍事技術をもって町々を瓦礫にする爆撃の命令を下すことができるのか。
 強くならなくても、できる。狂えばいいのだ。」(同上)

ブレアが「中東和平で世界はブッシュ大統領と協力を」と表明したとニュースは伝えている。いったい、これはどんな和平?ファルージャをさらに瓦礫だけの街にするようなことが?パレスチナを小さな牢獄の寄せ集めにすることが?

カフカが描いていた不条理は寓話的な世界ではなく、まさに現実だったのだとやっと私はわかってきた。

ブッシュの再選はこの日本にも大きく影響する。軍国化する流れはまた勢いをつけるだろう。

「この星には何の希望もみつけられない。ここを出ていくか、自分のことだけを考えて生きていくしかないんだ」

と、言いたくなる気持ちは自分のなかにもある。

短期的に何かが変えられるとは思えない。変わるとも思わない。

(切羽詰まって、劇的に何かを変えようとするところには、悲劇的な暴力が生まれる。その究極の形が自爆攻撃や自殺なんじゃないか)

ただ、今思うのは、本当に希望はないのかということ。安易な希望を処方箋のようにみつけてもしょうがないが、私は自分がつながりを作っている人たち──直接知っている人も、いまだ会ったことのない人も含まれる──のなかに希望をいつも感じている。どんなに小さくても、それは私にとっての現実だ**。

人から奪い、人を殺し、傷つける関係性のなかに生まれるもの。人を殺すことではなく、人をいとおしむことの中にしかあり得ないもの。本当に人間が選びたいのはどちらだろうか?──私の答えはハッキリしている。

「希望はない」と言い、「自分のことだけを考えて生きよう」としたところで、その自分はすでに状況に呑み込まれている。どうせなら、本当に絶望しきろう、絶望の底を体験してみよう、という声が私の中から聞こえてくる。そんなとき、フト思い出されるのは、子どもの時に嫌々憶えさせられた宮沢賢治の「雨ニモマケズ」だ。

「アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキ小屋ニイテ
東ニ病気ノ子供アレバ
行ツテ看病シテヤリ
……(中略)……
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ」
(宮沢賢治「雨ニモマケズ」より)

「でくのぼーと呼ばれ」……いいなぁ。絶望の底を突き抜けたところに本当の「デクノボー」はいるような気がする。

ブラジルで「この国に黒人はいるのですか?」と聞くようなトンデモな人間を大統領に選ぶような国に振り回されるのは、正直、むちゃくちゃ悔しい。

しかし、そんな人たちにすべての希望を奪わせておくわけにはいかない。


**この次の文章「神戸の公園で ──震災のときの記憶」はこの文章とそれなりにリンクしています。

***「絶望」との距離の問題は、 「アメリカ大統領選挙」 (from「モジモジ君の日記。みたいな。」)で興味深い指摘が。

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